2011年6月30日木曜日

コンタミ

蛍光灯を半分間引いているオフィスに出社。 ネットワークが変だな、と思ったら、 サーバルームの冷房が故障しサーバ全部が熱暴走。 応急処置としてサーバルームの扉を解放し、 オフィス内の空気で冷やすしかない。 私のデスクはサーバルームのすぐ傍なので、 ファンの爆音と熱風にさらされつつ、お仕事。

そんな中、来週頭の出張の予定がなかなか定まらない。 今朝になって、 私がそのミーティングに出席すること自体にコンタミの恐れがあるのでは、 とややこしいことになってきたので、 現地に行ってみて、もし止した方が良ければ欠席しましょう (そして、その間、近所の市場で皮蛋粥でも食べてます)、とフィックスしてしまう。

「コンタミ」とは "contamination" つまり「汚染」のこと。 しかし、私が出席すると会議が汚染される、という意味ではない(多分ね)。 通常、生物化学系の実験で目的の物質以外のものが誤って混入してしまって、 正しい結果が出ないことを指して「コンタミ」と言うことが多い。 しかし、IT業界用語としては、 物質ではなくて「情報」が誤って混入することを指すのが普通。 つまり、知ってはいけないことを知ってしまう、 知らせてはいけないことを知らせてしまう、 使ってはいけない情報を使ってしまう、などの危険のことを言う。

コンタミについては初めて聞いたときに意味の想像がついたが、 すぐには分からなかったIT業界用語の一つは「サチる」。 これは "saturation" (飽和)から来ていて、 つまり、ものごとがいっぱいいっぱいにあふれて、 それ以上の処理が出来なくなることを言う。 「あの部署はもうサチってるから」とか、そんな感じの用法。 語感がよろしくないので、大抵、かなり悪い意味で使われる。 おすすめはしませんが、 飲み物にコルクくずが混じりそうなときに「コンタミの恐れあり」、 満員のレストランで注文が通らないときに「キッチンがサチってる」 のように使えます。

2011年6月29日水曜日

二時間ドラマ版「乱れからくり」

最低気温が 25 度を越える既に真夏。 最高気温は 34 度らしい。 風通しの良い日陰の芝生の上 1.5 メートルの百葉箱の中でね。

夕方から神保町の映画館で、 泡坂妻夫原作「乱れからくり」(佐藤肇監督/1982)を観る。 柴田恭平、古城都、主演。 東宝映画版の方ではなくて、円谷プロ制作のテレビドラマ版。 つまり二時間サスペンス。 実際、最後に「聖母たちのララバイ」が流れていた。 しかし、ねじ屋敷の庭の迷路の仕掛けなど、円谷プロの気合が入りまくり。 場内から「おおっ」と声が上がったくらい。 昔は二時間ドラマもこれくらい充実していたのだなあ。

映画のあと、近所のベルギービール屋で、 白とアンバーの生ビールを一杯ずつ、 鯖の燻製のマリネなど軽食を二皿食べながら、 「特捜部Q」(J.A.オールスン著/吉田奈保子訳/ハヤカワ・ミステリ 1848) を読む。 お湯の中のような猛暑の街を、徒歩で帰宅。

2011年6月28日火曜日

コーダーズ・アット・ワーク

昼休みに新刊書店で、 「Coders at Work」(P.Seibel著/青木靖訳/オーム社) を買う。この前、N さんが勧めていたので。 そう言や最近、N さんは親戚に提示された鞄一杯の札束を突き返し、 相続問題に決着をつけたとか。 ずいぶん前からもめているとは聞いていたが、そんなにこじれていたとは。 しかし、ハードボイルドだね。見直したぜ。

昨日、「ふっ、その計算エンジン、私がドキュメント込みで週末までに書きましょう」 と言ったのだが、 実は 20 行くらいの python スクリプトで書けてしまうので、 火曜日現在、既にすることがない。 しようがないので、変数名や関数名を考えに考え抜くのと、 コードの 100 倍くらいの量のドキュメントを書くのが、週末までの仕事。 これも一つのコーダーズ・アット・ワーク。

そう言えば、かつて天才プログラマ K さんが、 「これくらいあればできる、と思った時間の三倍をマネージャに言う」 と発言していたが、このことだろうか。(多分、違う。)

2011年6月27日月曜日

父からの歌、その二

今日も曇り時々ぶた、じゃなかった、雨で、比較的涼しい。 今週から弊社も節電モードに入り、様々な対策をするらしい。 例えば、正午から一時までは消灯らしいのだが、 私はその時間、神保町散歩をしているので、どうなっていたのやら。

実家から送られてきた一夏分のじゃが芋と玉葱と一緒に、 父からの手紙が入っていた。最近、筆まめだ。 じゃが芋がじゃんじゃんと困るほど採れるらしい。 それはさておき、また、最後に歌が添えられていた。 「わがやどに蒔きしなでしこいつしかも花に咲きなむそなえつつ見む」。 またしても、記憶違いなのか、微妙に間違えて引用している。 「そなえつつ」じゃなくて「なそえつつ」だろう。 供えてどうする、縁起でもない。 しかし、相変わらず、この歌で何を言いたいのか不明だ。 「あなたのことを思いながら種を撒いた撫子の花はいつ咲くのだろうか、 咲いたら君になぞらえて見ることだよ」 と恋人に送った歌だったと思うが、 息子に送ってどういう意味があるのか、全く分からない。 それとも、「供えつつ」は意図的なのか。 もうお前のことは死んだと思って……、とか。

2011年6月26日日曜日

絵に値段をつける

一日、曇り空。湿度は高いが、気温が低くて過しやすい。 そこで、昼寝をしてから東京国立近代美術館にパウル・クレー展を観に行く。 びっくりするほどの混雑だった。ちょっと失敗。平日にすれば良かった。

展覧会で絵を観るときには、 その中でどの絵が一番気に入ったかを考える、という人は多いようだ。 そしてその絵を再度じっくり観る、とか。 私もそうなのだが、私の場合それに加えて、「いくらなら買うか」を考える。 今の自分がいくらまでなら払えるかの上限を、真剣に考えるのだ。 もちろん、あくまで自分のためだけに買い、 転売の可能性や市場の評価などは一切、考慮しないと仮定する。 こういう鑑賞の仕方は、おそらく下品だろう。 少なくとも趣味は良くない。ディナの席でも口にしない方が良さそうだ。 しかし、本当にどれくらいその絵が良いと思っているのか、 計量する良い手段だと思っている。

無論、この金額は相対的なもので、他の人とは比べられない。 だけど、自分だけには正しく計量できる。 例えば、私は院生時代に、 画廊に借金をして金子國義のドローイングを買った (思えば、飛び込み客の学生にツケで売った、 あの画廊は偉かった。人を見る目があったんだね)。 事情があって、数年後に金沢の知り合いに転売したけれど。 それは今の私にとって、 当時の私についての非常に良い定量的評価になっている。 私は昔から、それくらい悪趣味だったのだなあ、と。

2011年6月25日土曜日

マロリー・サーガ

今日も朝から大変な蒸し暑さだったが、 午後からは雨が降って急に涼しくなった。 音楽を聴きながら、読書の一日。 ムーティ指揮のモーツァルト「レクイエム」など。 あとは、実家から送られてきた一夏分のじゃが芋と玉葱で、 ポテトサラダ作り。

「死のオブジェ」(C.オコンネル著/務台夏子訳/創元推理文庫)、読了。 マロリー・サーガの第三作。 オコンネルは登場人物の造形が独特だ。 特にマロリー・サーガは私の心の琴線に激しく触れるのだが、 出版されている間は全くシリーズの存在に気付いていなかった(現在、 第一作「氷の天使」以外は品切れ)。 主人公の設定が、ちょっと聞くには、荒唐無稽過ぎたからだろうか。 主人公のマロリーは、 不幸な子供時代に人の心を失い、代わりに盗人と殺し屋の心をまとった、 究極の美女で、ハッカーで、警官なのだ。 それが、マロリーに報われない恋をしているシラノ的大鼻と天才的頭脳を持つ純情な醜男チャールズや、 マロリーの養父の故人マーコヴィッツの友人たちと触れ合いながら、 そして、悲惨な事件を悪魔的手法で解決しながら、 徐々に人間らしい心を取り戻していく。 これだけ聞くとデビルマン。でも傑作です。

2011年6月24日金曜日

若尾文子と着物

言ってもしようがないが蒸し暑い。死んでしまいたいくらい。

夕方から、神保町シアターで H.Q.マスル原作「私を深く埋めて」(井上梅次監督/1963)を観る。 田宮二郎、若尾文子主演。 若尾文子が出てくる度に毎回違う、ものすごく趣味の良い着物を着ている。 この着付けのセンスは抜群。 それはさておき、やっぱり若尾文子はいいなあ。 脇役の江波杏子もキュートだったが、 やはり若尾文子の着物姿のフェロモン濃度の前では形無し。 私は時々、好きな女性芸能人は誰かと尋ねられて、 「若尾文子」と言って怪訝な顔をされることがあるのだが、 昔の映像をちょっと見ていただきたいものだ。 映画のストーリィもけっこう本格的なフーダニットで面白かった。

2011年6月23日木曜日

朝食をとりながら、 特別区民税・都民税納税通知書とにらめっこしてから出勤。 外は少し蒸し暑いが、肩に降る雨が心地良い。 誰のせいでもない雨が降る中、 小柳ルミ子の「雨…」を口遊みながら、徒歩で会社まで。 雨、雨、降れ降れ、もっと降れ。 古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるものでございます、 ということはなくて、大抵、口をついて出てくるのは古い歌だ。 さて、この段落にいくつの歌があったでしょう。

明日の夜に幕張でのミーティングが入っていたのだが、 良い具合に東京での今日夕方に振り替えてもらえた。 戦略レベルのミーティングを一時間ほど。 始まりがかなり後ろに押したので、帰るときには夏至の日も暮れていたが、 それでも週末の夜遅くに幕張から帰ってくるよりはずっと良い。 午後からは晴れ上がったせいで、夜はお湯の中を歩くような蒸し暑さ。

2011年6月22日水曜日

肌色の月

夏が来た。 特に今日はたまたま、他社を訪問する仕事があったので、 照りつける夏の日差しを堪能。

夕方から、久生十蘭原作の映画「肌色の月」(杉江敏男監督/1957)を観る。 私は久生十蘭ファンなので、外すわけにはいかない。 主演の乙羽信子がもう一つ私の好みではないのだが、 映画全体のしみじみと落ち着いたムードが好ましい。 古い映画っていいなあ……という感じ。 家で夕食の支度をするのも面倒なので、 近所のベルギービール屋で軽食をとって帰る。

2011年6月21日火曜日

銀座にて

夜は銀座のお鮨屋さんにて、ネットワーク系ハッカーの N さんと夕食。

N さんは私よりかなり若いが、十五年ほど前からの知り合いである。 昔の彼は横浜の路地裏で若者たちに大人の怖さを教えてあげたりと、 ちょっとヴァイオレントなところがあったが、 今ではすっかり落ち着いた青年実業家である。 N さんは数年前に独立し、個人事業で情報インフラの仕事をされているのだ。 最近になって、N さんとよくお食事をご一緒するようになった。 その理由は、彼が健康でいられるのもそう長くないかも知れない、 と予想しているからである。半分くらいは本気で。

私は既に多くの知り合いを失った。 その内には偉大な頭脳を持った人も、天使の横顔を持った人も、 黄金の心を持った人もいた。 しかし、年下の例はまだ少ない。くれぐれも健康に注意してもらいたいものだ。

2011年6月20日月曜日

わかるとわからなくなる

今日も鬱陶しい曇り空。 昼休みに新刊書店で 「ランボー全詩集」(A.ランボー著/鈴木創士訳/河出文庫) を買った。

「Amazon ランキングの謎を解く」(服部哲弥著/化学同人) を読み込むのが今日の仕事。 4 分の 3 ほど熟読して、夕方、帰る。 思っていた以上に高度な本だ。 著者の勧め通りに途中のいくつかの章をスキップしても、 普通の読者には挫折する人が多いだろうなあ、と思った。 数学が苦手な人は飛ばしても良い、というその二つの章では、 流体力学極限の概念をできるだけ正確に伝えるために、 かなり高度な確率論の道具だてが(一つの嘘もなく)説明されている。 これほど分かり易く噛み砕いて書ける人は、 服部先生をおいて他にいないだろう。 しかし、 やはり確率論の専門教育を少しは受けていないと、 これらの章には歯が立たないかも知れないなあ、とも思った。 確率論のプロにとっては血肉となっている概念には、 ランダムとは何か、ということに関するある種の「サトリ」が、 解析学の深い知識と組み合わさったものが多い。 ここについてだけは「マニアック」と言う言葉では誤魔化せない。 このハードルの高さは、一度わかってしまうとわからなくなるのだが、 実際のところ恐ろしく高い。 それに縦書きの本で挑戦したところが、偉大。

2011年6月19日日曜日

数学者とは

突然、左利きになってみたくて練習をしている、 という話をしたら、 A 大先生が言うには 「そういうところが、やっぱり数学者なんだよね」 とのことだった。 数学者の本質や私の性格について、 なんだか鋭いところを突いているような、突いていないような、 ただの酔っ払い発言だったような。

「二流小説家」(D.ゴードン著/青木千鶴訳/ハヤカワ・ミステリ 1845)、 読了。 とても面白かった。これは傑作じゃないかなあ。 昨日、今日とちょっと食べ過ぎたので、夕食は抜き。

2011年6月18日土曜日

贅沢品

二年以上前の引越し時に故障した CD プレイヤが、 いつの間にか直っていることに突然、気付いた。 なんだか凄く得したような錯覚。 K.ジャレットのケルン・コンサートを大音量で聴いてみたり。

夜は、今月既に数回目であろう A 大先生の誕生日会に参加。 美人秘書の方々へのお土産は栗最中。 大先生へのプレゼントはなし。 私に直接、会えることが既に贅沢だから。 確か真賀田博士も、 近い未来に物質的なアクセスは宝石のように贅沢品になるでしょう、 他人と実際に握手することでさえ特別なことになります、 と予言していたし。

2011年6月17日金曜日

小籠包の正しい食べ方

左きき練習のため、中華料理屋で飲茶。 自宅で練習した納豆御飯やとろろ蕎麦より難しいもの、 それはあつあつの小籠包だ。 中国人の麺打ち職人に見つめられながら、小籠包を食べる。

私はいまだに、小籠包をいかに食すのが正しいのか知らない。 私の知り合いの一人は、 蓮華の上に載せてから箸で穴を開けてスープを蓮華に出し、 それを飲みつつ、残りも徐々に食べるのが正調である、と主張していた。 確かに、そつのない感じがするものの、やや巧緻に過ぎるきらいもある。 また、小皿の上で二つに割って、スープをつけながら食べる人もいる。 和菓子みたいだが上品で悪くない。 一方、皮を傷つけないようにそっと運んで、 まるごと一つを口に放り込むのが正しい、 と力説する人もいた。 噛んだ時に口の中にあふれ出すスープが小籠包の醍醐味なのだ、 そのために小籠包は一口サイズなのだ、 小籠包を箸でつついたり割ったりするなどとは、 燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんとはこのことだ、と言うわけだ。 火傷の危険はあるが、一定の説得力を感じる。 一体、どれが正しいのか私は知らないので、 ご存知の方は御教授願いたい。 とりあえず、 どう食べるにしても左手では難しいことには間違いなかった。

夜は、K.ジャレットの "The Melody at Night, with You" など聴き流しつつ、フーコーを読んだり。

2011年6月16日木曜日

百均棚にて

先週の話だが、昼休みに古本屋の百円均一棚を物色していたら、 近付いて来たおじさんから、「はいこれ」と言って突然、お金を手渡された。 「いえ、困りますから!」とお金を返すと、 おじさんは「あ、中で払うのか」と本を持って店の中に入って行った。 もう初老に入って久しいのに、古本屋のバイトと間違われるほど、 しょぼくれている昨今の私である。 これでも二十代の頃は、 通りすがりのブティックでワンピースを(あくまで単なる興味で)見ていたら、 すり寄ってきた店員さんから「ご試着されますか?」と訊かれるくらいだったのに。 時の流れは、飛ぶ矢よりも速く、昆虫採取セットを持った子供よりも残酷である。

ちなみに、今日は百円均一棚でオコンネルの 「死のオブジェ」(C.オコンネル著/務台夏子訳/創元推理文庫) を発見して購入しました。

2011年6月15日水曜日

愛について

午前中は、技術系スタッフと知財系スタッフのミーティングに同席。

今までやってきたことがほとんど通用しなくなったときに、その地点から新しいビジネスを編み上げるのは難しいだろうな、としみじみ思う。「第二の創業」なんて言葉があるが、商売の見込みがあるからゼロから創業した時の創業と、コーナーに追い込まれて膝をついたところから既に大きな規模を抱えて「創業」することは、問題の難しさの質が違う。あくまで、一般論ですけれど……

帰り道で散髪をして帰宅。Amazon から A. de Botton の本が届いていたのは良かったが、"Essays in Love" と "On Love" は同じ本なのに両方を買ってしまう失敗。高校生のときに、クリスティの「雲をつかむ死」と「大空の死」の両方を買ってしまって以来だ。まあ、"On Love" の装丁がお洒落なのでよしとしよう。

スーパーで大和芋を安売りしていたので、夕食のメインはとろろ蕎麦。他に作りおきの惣菜あれこれ。左手で料理も始めてみた。まあ何とかなっているが、近いうちに指の一本や二本落とすかも知れない。

2011年6月14日火曜日

盲目のチェリスト


帰り道で、盲導犬を連れてチェロを抱えた人を見かけた。盲目のチェリストか……。私は目の不自由な人に惹かれる傾向にあるのだが、何故なのだろう。確か、ユマ・サーマンが盲目のチェリストを演じた映画があったなあ。盲目の箏奏者が出てくるのは……「本陣殺人事件」か、などと思いつつ帰宅。

某誌から某新刊書籍の書評依頼が来ていた。これは喜んで書かせていただこう。

まだ明るい内からお風呂に入って、湯船で読書。
「二流小説家」(D.ゴードン著/青木千鶴訳/ハヤカワ・ミステリ 1845)を読み始める。原題は "The Serialist" で、直訳すれば「連載もの作家」だ。あるいは、少しずつ進めていく人、というイメージもあるのかも知れない。

2011年6月13日月曜日

たとえそなたのあらずとも


夕方から、「死の十字路」(井上梅次監督/1956年)を観る。原作は江戸川乱歩の「十字路」。
昔の俳優は顔がノーブルだなあ……。特に女性たちが美しい。新珠三千代が演じる社長秘書(兼、愛人)はもちろん、 セクシーな探偵助手、足の悪い街の娘、バーのマダムなど、脇役も全員、綺麗だ。この映画は観て良かったなあ、と思った。拾い物をした感じ。

帰宅して、作りおきの惣菜あれこれのあと、手製の八方地で素麺を食す。左手で素麺はかなり難易度が高いが、何とかクリア。

鎧敦訳の「バガヴァッド・ギーター」(講談社学術文庫)も読んでみる。こちらは訳文が文語調なので、格調高い感じがして、なお迫力がある。オッペンハイマーが引用したと言われる、例のあたりの箇所はこうなっている(11:32-33)。
われは、世の破滅をばなす強大なる時。世を回収せんがため、ここに出現す。たとえそなたのあらずとも、敵陣中に居ならべる武士たちは、すべて皆、存することなかるべし。
されば、そなたは奮い起て。怨敵を降伏し、名声を得よ。彌栄の王国を享け楽しめ。このものどもは、われによりてぞ、すでに誅さる。左手にても弓射るものよ、そなたは、ただに、傀儡たれ。
 砂漠の実験場でこの節を思い起こしていたときのオッペンハイマーの心を想像すると、とても怖い。そして、それをあながち誤読と論じ切れない自分の心が、とても怖い。

2011年6月12日日曜日

順応

昨日一日、食事を抜いたら、意外と快適。例えば、週末は朝食の一日一食だけ、という線もありうるかな……。

家事の合間に、"Adapt" (T. Harford 著 / Little, Brown) を読む。沢山の興味深いエピソードで解説されていて、けっこう面白い。
理想的な組織と問題解決は、
  1. 情報が集中するトップと上層部が「大きな絵」を描き、意思決定をする
  2. その方向に組織全体が一体となって力をあわせて動く
  3. 組織階層の上下に情報と指示が緊密に流れる
という三つの要素で構成されるように思われている。しかし、それは少なくとも現代の大きな組織では全く有効ではないし、実際、ほとんど機能していない、という指摘から、この本は始まる。1番は自己欺瞞的なプロパガンダになり、2番は集団思考に陥り、3番は各層が意思疎通をブロックするゴミ箱になる、というのである。全く耳が痛い。誰もがこれらの障害を目撃しながらも、何故か執拗に、上のような組織を「理想」だと思っているのではないだろうか。「選択と集中」とか、「トップがヴィジョンを示して……」 とか、「全社一丸」とか言いながら。

このような「理想」の問題解決の代案として著者が提案しているのは、間違っていても立ち直れるような小さなスケールで、できるだけ多くの新しいことを試し、できるだけ多くの間違いを犯し、その過程で状況に適合し順応していく、という方針である。これもまた、良く聞く「理想」の一つだと私は思うが、どちらかと言うと、こちらの方針を意識的に胸においておく方がバランスが取れそうではある。このあと、"Adapt" という概念をめぐって、豊富なエピソードとともに、あちらこちらへと連れ廻されて、色々と考えさせられる本。

2011年6月11日土曜日

一日不食


食欲がなくて、一日、食わず。

「バガヴァッド・ギーター」(上村勝彦訳/岩波文庫)を読む一日。短いのですぐに読める。数学者にとっては、天才アンドレ・ヴェイユが(サンスクリット語で)愛読していた、というエピソードで馴染み深い。その妹であり別の意味での天才、シモーヌ・ヴェイユも、その短か過ぎる人生の中で自らサンスクリットからフランス語に抄訳するほど、「ギーター」を読み込んだ。また、マンハッタン計画を指揮したオッペンハイマーが、究極の神が真の姿を現す箇所を引用して、原子爆弾開発時の心情を吐露したことでも知られている。「私は世界を滅亡させる強大なるカーラである。諸世界を回収するために、ここに活動を開始した。たといあなたがいないでも、敵軍にいるすべての戦士たちは生存しないであろう。……」

ヒンドゥー教で最も重要で、最もポピュラで、究極の聖典とされている「バガヴァッド・ギーター」だが読んでみると、不可解で、怖い本だ。長大な叙事詩「マハーバーラタ」 の前半で、アルジュナ王が一族同士の大戦争を前にして、戦意を喪失する。戦いに何の意味があるのだろうか、自分の家族、親族、友人たち、師匠たちの幸福のためと言うが、人々の命を奪ってまでして、得られるものは何なのか。親族でもある人々と殺しあった結果の幸福や享楽ならば、得たくはない。尊敬する師匠たちを殺すくらいなら、施しを受けて暮らした方がよい。と、しごくもっともな理由を述べるアルジュナ王に対し、クリシュナ(バガヴァッド神)が世界の究極の秘密を明かして、戦争をするように説得する、という箇所が、「バガヴァッド・ギーター」(「神の歌」)なのである。滅茶苦茶だ。しかし、世界の真実、究極の智慧はおそらくこういう形で述べられるものなのだろうな、という気はする。

「それを知れば、あなたは再び迷妄に陥ることはなかろう。アルジュナよ。それによりあなたは万物を残らず、自己のうちに、また私のうちに見るであろう。
仮にあなたが、すべての悪人のうちで最も悪人であるにしても、あなたは知識の舟により、すべての罪を渡るであろう。……」

2011年6月10日金曜日

健さんの金田一


湿度の高い、田舎の縁日の綿菓子のような一日。

夕方から神保町シアターで「悪魔の手毬唄」(渡辺邦男監督/1961)を観る。タイトル以外に、横溝正史の原作と何の接点もないストーリーだったが、大変面白く観られた。なんと、金田一耕助を演じているのは若き日の高倉健。しかも金田一耕助なのにスポーティ。金田一耕助なのにクラシックなスポーツ・カーなど乗り回し、金田一耕助なのに美人秘書を連れている。ちなみに美人秘書は「名探偵保健室のオバさん」みたいな黒縁の角のとがった眼鏡をかけている。名探偵のモダニズムという線では、江戸川乱歩作品における明智小五郎のスタイルの変遷がよく議論されるものだが、この時期の日本映画界においては金田一耕助すらモダンらしい。都会からスポーツカーに乗ってやって来て、神の如き名推理を立板に水で述べ、バックには警視庁の科学的捜査の力がついている。しかも、美人秘書まで連れているのだ、美人秘書まで。そんな健さんって、どう。

いやあ楽しい映画を観たなあ、と満足しつつ、ベルギービール屋で夕食をとって帰る。神保町シアターのこの企画「美女と探偵」はうっかり見逃していたが、まだ、植草甚一の「悪魔の囁き」、久生十蘭の「肌色の月」、泡坂妻夫の「乱れからくり」の TV ドラマ版、などなどの上映が残っている。観なければ。

2011年6月9日木曜日

いかなごの釘煮

朝は涼しくても暑い一日になりそうな、北海道土産のバター飴のような天気。
左手で髭を剃るのは簡単。T 字型のシェイバーなので左手でも容易に使える。これが床屋にあるような折り畳み式の一枚刃の剃刀だったら、毎朝の髭剃りが命懸けの冒険だろう。それくらいのチャレンジがあった方が、良く目が覚めるかも知れない。左手が利き手になるのが早いか、ある朝、ちょっと寝惚けていて手が滑り、うっかり死んでしまうのが早いか、競争だ。そんな死に方をするのもそれはそれで、ちょっぴりユーモアもあって、悪くないような気もする。

出社。トップから質問のメイルが来ていたので、いくつか資料を記憶の底からサルベージしてから 15 分ほど考えて、リプライ。以上、午前の仕事、終了。昼休みの散歩のあと、コンサルティング関連の考えごと。早い時間に良いアイデアを思いついた。以上、午後の仕事、終了。二時過ぎに帰ることにした。今日は仕事をし過ぎなんじゃないか、こんなことでは仕事人間になってしまうのではないか、と心配になったので。

帰宅して、お風呂に入り、ずいぶんと早い時間に夕食。夕方ですらないかも知れないが、夕食と定義します。左ききの練習。やはり納豆があると、格段に難しい。 しかし、いかなごの釘煮などを一匹ずつ箸でつまんでいると、一ヶ月くらいで何とかなりそうな気がする。ちなみに、いかなごの釘煮はいただきもの。ありがたし。季節になるといかなごの釘煮を大量に作って親戚縁者に配る、という方が、まだ日本には現存しているらしい。

2011年6月8日水曜日

悪の華

今日は何故か、チューイングガムのように人気者で、 いくつかミーティングに出席して社内コンサル業のかけもち。

おそらく丁度今、 青山のシアター・イメージフォーラムで「悪の華」(C.シャブロル監督/2003) を見終わった頃。

2011年6月7日火曜日

煙草と秘密

マウスの設定を全て左きき用に変更。これはすぐに慣れた。 料理道具は危ないし、意外に非対称なので、 左ききで料理をするのは一番最後になるかも知れない。 夕食に、スパゲティを左手で食べる練習をする。 食べられることは食べられるのだが、 間違いなく伊丹十三には叱られるだろう。 さらに今後には、蕎麦、饂飩、素麺など、 和麺類という難関が待ち構えている。 カレー饂飩も難易度が高そうだ。

左手を使って普段使わない脳の部分が刺激されたのだろうか、 何故か煙草が吸いたい。 そう言えば、何年か前にもそんな気持ちになって、 一日一本くらい吸うかなあと思ったのだった。 実は、その本当の理由を理解しているつもりなのだが、具体的には秘密。 私にはそんなつまらない些細な秘密が、 売れるならちょっとした店が開けるくらいある。

2011年6月6日月曜日

左ききになってみよう

特に意味はないのだが、昨夜ふと、左ききになってみようかな、と思い、 まずは食事のときから試してみる。 箸を左手で持ち、茶碗を右手で持つ。 ナイフを左手、フォークを右手。皿や器の配置も左右を入れ替えて。 稲荷寿司程度なら簡単に左ききで食べられたので、 今日はさらに難易度を上げてみた。 焼き魚(塩鮭)、胡瓜のもろみ載せ、大根の皮の甘酢漬け、 菠薐草のお味噌汁、納豆かけ御飯。 ただでさえどれも難しいのに、納豆で箸がすべるので、 全てが難易度「超難問(制限時間:無制限)」くらいにランクアップ。

普段は、小笠原流ですか、と言われるくらいの私が(嘘)、 まるで最近の大学生のよう。 屈辱的だ。 こんな食べ方で食べるくらいなら食べないほうがまし、と言いたくなるくらい。 多分、格好がつくまでに最低でも一ヶ月はかかりそう。

2011年6月5日日曜日

ディフェンス

おすそわけの五目稲荷寿司の夕食。

一昨日からほぼ強制的に合計で十時間ほど、 何もせずに椅子に座っているだけの時間があったので、 あれこれ考えごとなど。 先月末に希望退職の申請が締め切られて、 結局は申請しなかったのだが、 この一ヶ月ばかり退職することを真剣に考慮していた。 そもそもあと数年間は勤める計画だったことや、 慰留されたことなど、あれこれの言い訳で自分を誤魔化していたが、 じっくり考えてみると、 ここで辞めなかったのは「自分が弱っていた」からだと思う。 自分はこうありたいと思っていて、 自分がそう見せかけようとしている、 一番外側の人格だけが判断するなら、辞めていただろう。 その内側のどこかの自分が、世の中が怖くてディフェンスしたんだな、 と気付いて、情けないような、寂しいような気持ちだった。

2011年6月4日土曜日

好き放題

今日もお日様が出た。 雲雀と蝸牛が庭先でダンスをしていて、世はこともなし。 今日ものんびりと、好き放題、したい放題に、一日を過す。

2011年6月3日金曜日

ヌーヴォー・ロマン

少し晴れ間。

"The Consolations of Philosophy" (A. De Botton著/Penguin) や、 「快楽の館」(A.ロブ=グリエ著/河出文庫) を読んだりして、のんびり暮らす。 正直に言ってヌーヴォー・ロマンって、もう一つ面白さが分からない。 そう思いながら、けっこう楽しんで読めるところが、「新しい」のだろうか。 とりあえず、新しいものは何でも楽しい。

2011年6月2日木曜日

得意なこと

今日も雨。 一日二食のリズムが既に身についた。 昼食をとらないけれども、昼休憩はする。 近所の本屋で 「快楽の館」(A.ロブ=グリエ著/河出文庫) を買った。 久しぶりのヌーヴォー・ロマンだ。

政治家たちが、 問題が起こるとその問題を具体的に解決する行動をしないで、 誰と誰が仲良しで誰と誰が仲が悪くて、 誰たちがグループで、それをどう切り崩して、こちらで仲間を作って、 なんてことに一所懸命になるのは仕方ないな、と思う。 結局、それが一番得意なことなのだし、 普段はそれで(まあまあ)うまく行くのだから。 大きな難しい問題が起こったときに、 それを分析して、考えに考え抜いて、妥当なリスクをとって、行動する、 ということはとても難しい。 自分が昔から続けてきた、よく慣れている、 自分のテリトリー内の、得意なことをしたくなるだろうし、 それが何より大事なことなんだ、と思い込みたくなるだろう。 それはしようがないことであるが、 結局、人間の知性とは、そんな自分を客観視できるかどうかだと思う。

2011年6月1日水曜日

探偵とテレビ

私の観測によりますと、どうやら梅雨ですね。

噂に聞いのだけれど、あと二ヶ月くらいでテレビ放送が終了するのですってね。 テレビはいずれなくなるだろうとは思っていたが、 私の予想よりは早かったなあ。

蘭の栽培が趣味でグルマンの探偵ネロ・ウルフは、 一日に一回、一分間だけテレビを観る。 一分間、あちこちチャンネルを替えて、満足してスイッチを切るのである。 作曲家の武満徹は、テレビは深夜3時くらいが一番面白いと言った。 その時間帯は砂嵐(ホワイトノイズ)しか映らなかった時代の話である。 伊丹十三の友人はテレビを憎むあまり、 わざわざ高価なテレビセットを購入して、 メモ用の黒板としてだけ使っていた。 デルマトグラフというガラスにも書ける色鉛筆で、 ブラウン管(今なら液晶パネル)に「豚バラ肉を買ってくること」 などとメモするのだ。 こういった素晴しくどうでもいいけれど面白い話は、 私が丹念に蒐集したわけではなくて、伊丹十三のエッセイで読んだのである。