週末用の和風朝食のあと、洗濯などの家事。 朝風呂に入って、湯船で "Everything is Obvious" を読む。 読書、コンピュータ、原稿書き、マカロニサラダ作り。 今日の音楽は "Undercurrent" (B.Evans and J.Hall).
"Everything is Obvious" (D.J. Watts 著/ Crown Business) によれば、 自分の臓器の移植を認める人の割合はドイツでは 12 パーセント、 その隣のオーストリアでは 99.9 パーセントだそうだ。 非常に良く似たこの二つの国の、この巨大な差は何が理由なのか? 実際、ヨーロッパの他の各国もこのような極端な傾向に分かれる、 という調査があって、その「原因」が共通していることが報告されている (E.Johnson and D.Goldstein, 2003)。 その原因は、デフォルトの選択がどちらになっているか、 だけのことらしい。 移植を認める意思を明示しない限り反対であることになる、 つまりデフォルトの選択が「ノー」であるか、 移植に反対の意思を明示しない限り認めたことになる、 つまりデフォルトの選択が「イエス」であるか、だけの違いだそうだ。 ちょっと怖いような、深く考えさせられる話である。 ちゃんと個々人の意思による選択は全く自由に認められている。 ただ、デフォルトの値がどちらになっているかだけなのだ。
私が今関わっているプロジェクトでもこれに似た話を良く聞く。 キーワードは「オプトイン」と「オプトアウト」。 「選択(opt)」としての「参加/拒否(イン/アウト)」 という意味で、最近は専らプライバシィ問題の文脈で使われる。 スマートフォンや携帯電話、携帯端末、コンピュータ、 その上の様々なサーヴィス、ソーシャルネットワーク、ソーシャルゲームなどで、 個人情報の扱いをどうするか、という問題だ。 特にホットなのは個人の行動情報、 あなたが、いつ、どこで(GPS データ)、何をしたか、しているか、何が好きか、嫌いか、 という情報をサーヴィス側が取得し、収集し、分析し、 利用することの法律と倫理の問題である。 結局この問題は、個々人の選択に任せる、 という「手法」でほぼ決着しているようだ。
この手法によって、 あなたが個人情報を渡すか渡さないかの選択は全く自由で、 あなたの意思と判断に任されている。 だから、法律上の問題は生じないし、 倫理的問題すら何ら生じないと考える人もいる。 しかし、デフォルトの値がある。 デフォルトでは自分の私的な情報を渡さないことになっているが、 サーヴィスと交換に情報を渡すことを選択できる「オプトイン」と、 デフォルトでは私的な情報を渡すことになっているが、 情報を渡さないことと交換にサーヴィスを受けない選択ができる「オプトアウト」 である。 どちらが(圧倒的に)主流かは、言うまでもない。