2011年7月10日日曜日

葡萄と善悪の彼岸


本格的に夏、みたいですね。外に出なかったので推測ですが。 今日も朝カレーと、ラタトゥイユ。 夏野菜や葡萄を下さった方、どうもありがとう。 シャルダンのような日常生活の美を堪能しました。 夕食は、だし巻きになろうとした卵焼き、ポテトサラダ、素麺。 かなり左手が使えるようになってきたけれど、 だし巻き作りはまだ無理だった。

元気がないときは伝記を読む。 そういうときは、詳細で学術的な伝記よりも、講談調のヒーロー伝がいい。 「フォン・ノイマンの生涯」(N.マクレイ著/渡辺正・芦田みどり訳/朝日選書) はぴったり。

ところで、19 世紀末から 20 世紀の科学界の天才たちの話には、 大抵の場合、兵器開発、特に核兵器開発のプロジェクトがからんでくるので、 日本人としては複雑な思いをする。 しかし、 20 世紀は事実として世界戦争の世紀だったのであり、誰にとっても巨大な危機だった。 危機においては、知識とは、科学とは、倫理とは、人間とは、 という問題が鋭く突き付けられる。 そして、思考の限界に近付き、限界を押し広げる人々が現れる。 ポイントは、「限界」とは単に限界であって、善悪の彼岸にあることだ。 私は、「平和が生み出したものは鳩時計だけ」というタイプの議論には与しないが、 危機が個人や人間の限界をよりシャープに照らし出し、 否応なく人をそこに追い詰める、ということはあるのだろうとは思う。 人間には何ができて、何ができないのか、 という限界についての質問は、善悪の彼岸にある。 それは、何をして「よい」のか、何をしては「いけない」のか、 という質問とは違う。 普段は善悪の彼岸にある人間の限界についての質問が、 危機にはぎりぎりの此岸から赤々と近くに見えるのだろう。