朝から涼しい。 もうすぐ TV 放送が終了するらしいので、 朝食をとりながら久しぶりに TV を観てみる。 テレビやマスコミは一体だれのもの、とってもさびしいからとりあえず点けてます、 と口遊みつつスウィッチを切り、家を出る。 楽しくスクリプト書き。
夕方、帰りにいつものように遊園地を通り抜けるとき、 今日は秋のように涼しいし、人もいないし、 観覧車に乗ろうかなと思い、実行する。 そうだ、なぜ、観覧車に一人で乗っちゃいけない。 お客は私だけのようだった。 「初老の男子一名ですが、何か?」 という堂々たる態度で、チケットを買う。 十五分ほどの観覧車の中では、今日昼間に買った 「善悪の彼岸」(ニーチェ著/中山元訳/光文社古典新訳文庫) から第2篇「自由な精神」の冒頭を読んだ。 ……身の回りには、庭園にふさわしい人々を集めたまえ。 あるいはすっかり日の暮れた頃に、一日がすでに記憶となろうとしている夕暮れどきに、 水辺を流れる音楽のような人々を集めたまえ。 善き孤独を、自由で気ままで軽やかな孤独を選びたまえ…… 時間が短過ぎる。観覧車の半径を二倍から三倍くらいにして欲しいものだ。 たまに来る一人の客のために巨大な観覧車を動かし続ける。 何というエネルギィの無駄遣いだろう。 しかし、これが文明だ。巨大な大学図書館の冷房の効いた誰も来ない部屋の片隅で、 読まれるのを待っている 97 年前の論文のようなものだろうか。
それほど遠くない未来に、紙の本に装丁した論文集を納める図書館はなくなり、 全て純粋な情報としてだけ保存されるようになるだろう。 そして、観覧車もただのデータの流れに、つまり、ヴァーチャルなものになる。 今の技術でもヴァーチャルな観覧車は作れるが、コストがかかり過ぎるし、 おそらく私の世代の人間はそれを心からは楽しめない。 しかし、次か、その次の世代以降は、また違うだろう。 その頃には、人間はエネルギィを何に無駄遣いしているだろう。 想像はつかないが、それがその時の文明の高さを示すだろう。 つまり文明の高さとは、観覧車の高さだ。