2011年9月7日水曜日

人生をコンプリートする

朝夕はかなり涼しく感じられてきたが、昼はまだ日差しが厳しくて暑い。 夕方にミーティングがあったので、少し遅い帰宅。 夕食はまた塩鯖。

翻訳に興味があるものだから、英語の文章を読んでいると、 ああこれは訳し難いだろうな、と思うことがある。 うまく言えないのだが、「大き過ぎる」単語があって、 日本語に移そうとするとどうしても一言では言えない。 例えば、C.オコンネルの "Crime School" からの引用の以下の段落では、 "complete" と "home" などがそうだ。(強調は私による)

The little girl was screaming death threats at the top of her tiny lungs while Lou Markowitz grinned broadly and foolishly. His life was complete. His wife was busy ripping the passenger door off its hinges, and Kathy was almost home.

人生が完全になった、満たされた、では少し違う。もっと大きく、重い。 プレスリーの「ラヴ・ミー・テンダー」に、 "You have made my life complete, and I love you so." という歌詞があるが、それも同じだ。 「あなたは私の人生を complete にしてくれた」、 それはどういう状態のことなのか。 単に満たされた、ということではないだろう。 人それぞれによって違うのかも知れない。 あなたにとって、人生が "complete" する、とはどういうことなのか。 やりがいのある仕事に恵まれ、生涯の伴侶と出会い、 愛する人の子を産み、その唇に自分の乳をふくませるときのことかも知れなければ、 あるいは、この世でなすべきことをなし、残したことはない、 と静かに一人孤独の中で死を迎えるときのことかも知れない。 実際、"complete" には生と同時に死の匂いがする。 または、人生が "complete" することなど、誰にとってもありえないのかも知れない。 とにかく、そういうことを全て大きく囲んだ言葉であり、 他の言葉に移し変えるのが難しい。

おかしな喩えかも知れないが、万葉集を読むのに似ている。 万葉歌は大き過ぎて、よく分からない。 直球剛速球に過ぎて、よく見えない。 「こひこひてあへるときだにうるわしき ことつくしてよながくとおもはば」なども、 さすがに私も日本人だから心にじんとは来るのだが、 頭で理解しようとすると子供が詠んだ歌のようにしか見えず、 ああ、この大きさが私には分からないのだな、と思う。 その証拠に、現代語訳をしてみると、なんだか馬鹿馬鹿しい。 「恋しくて恋しくて、会えたときだけでも、 きれいな言葉を尽してください、長く続けようと思うなら」、 としか訳せないが、つまらない。まるで違う。 おそらく、一つ一つの言葉がカバーする領域が今よりずっと大きく、 今では想像もできないほど一つ一つの言葉に力があり、 この歌を声に出して詠めば誰の心も大きく震えるくらいだったのだろう。