2011年9月30日金曜日

朝からナポリタン

週末だし、ちょっとスペシャルなことをしよう、と思い、 朝食にスパゲティ・ナポリタンを作る。 他にカフェオレ、林檎ジャム(自家製)とヨーグルト。

退社後、神保町のカフェへ。 「我が屍を乗り越えよ」(R.スタウト著/佐倉潤吾訳/ハヤカワ・ミステリ 439) を読みながら、一服。 表参道に移動して、 映画「サヴァイヴィング・ライフ」 (J.シュヴァンクマイエル監督 / 2010年) を観る。 もし空いていれば、今は骨董通りのバーにいるはず。

2011年9月29日木曜日

アスパラガスの美女

昨夜は就眠儀式に、「十蘭万華鏡」(久生十蘭著/河出文庫)より 「花合せ」を読んで寝た。 こういうさらっとしたのも良いなあ。 贅沢は敵だという戦時の空気が覆うなか、 全く構わず「自分のいちばんいい生活をするのがほんとう」 と言って豊かに暮らしているランチェ美女に誘われたけれども振りました、 というだけの話。しかし、飄々とした雰囲気と、 読後にぽんと放り出される感じが何とも言えない。 ところで、十蘭は着物美女の描写がどうやら凄いらしいのだが、 何せ無粋で着物も女性もあまり知らない私には、いつも良く分からない。 と言っても、洋服なら分かるかと言うと、半分くらいかな、という感じ。

ほんのざっとした身装だが、茄子紺の地に薊を水玉のように白くぬいたアンプリメの服と、 桃色珊瑚の薊の花の襟留(ラバ)が微妙なまでに調和して、 見ているうちにあだやおろそかな趣味ではないことがわかってきた。

また千子の美しさというのも、どこといって眼をうつようなところがないくせに、 見ているとだんだん美しさをましてくるというふしぎな美しさで、 花というよりは、とりたてのセロリとか西洋独活(アスペルジユ)とか、 そういう新鮮な野菜を連想させるのがみょうだった。

独活の大木は聞いたことがあるけど、西洋独活の美女は初めてだ。 ちなみに、独活はひとりでに動いているように見えるから独活って書くんだよ(豆知識)。

いつもの朝食のあと出勤。 夕方退社。 帰宅して、干し椎茸とだしを引いたあとの昆布でどんこ昆布を作る。 前回は山椒を使ったので、今度は七味にしてみた。 そのあと夕食の支度。 鰤のあら煮、酢大豆、ピーマンの焼きびたし、切干し大根と麩の味噌汁、生姜御飯。 夜は読書など。「宇宙消失」(G.イーガン著/山岸真訳/創元SF文庫) 、読了。 時々 SF 小説を読むのは精神衛生上良い、と言うか、精神の若さのチェックになる。 思えば、SF というジャンルも、十蘭と同じく著しく読者を選ぶようだ。

2011年9月28日水曜日

枕頭のコイン投げ問題

いくらでも眠れそう。覚醒とは本来不快なものですね。 カフェオレで目を覚まし、平日の洋風朝食のあと、出勤。 夕方退社して、近所のカフェで一服。 しばらく「宇宙消失」(G.イーガン著/山岸真訳/創元SF文庫) を読んで、珈琲豆を買って帰る。帰宅して夕食の支度。 鰤の漬け焼き、山椒どんこ昆布、酢大豆、鰤と大葉と生姜のお椀、生姜の炊き込み御飯。

昨夜、寝台で「宇宙消失」を読んでいると、 コインを 900 回投げるうちに 10 回以上連続で表が出る確率は 3 分の 1 以上、 という記述があったので、ルイス・キャロルよろしく枕頭の暗算で確かめてみようかなと思った。 しかしほぼ同時に、この問題は難しいんだよなあ、と思い出して、そのまま寝てしまった。 この問題は初歩の確率を学ぶとすぐに計算したくなる一見は易しげな問題だし、 古典的な結果でもあるが、暗算でできるほど易しくない。

まずは、n 回投げたところで初めて 10 回連続表を達成する確率にブレイクダウンするのが味噌で、 これを思いつかないと多分解けない。 (ちなみに、初めて起こった時間や場所で事象をスライスするこのテクニックは、 数学者の道具箱の中でも特に、一般的で強力なトリックである。) ところが、その確率を求めるのも易しくない。 そこで、それらの間の漸化式を立てるのだが、それもまた易しくない。 さらに、それを解くのも易しくないので、母関数を求めるのだったと思う。 この問題を解くもっと易しい方法があるのかどうか知らない。

2011年9月27日火曜日

料理用の刷毛

いつもの朝食のあと出勤。 出社して、数値計算などして遊ぶ。と言っても、こういう場合、 遊んでいたのは私ではなくて計算機の方なのだろうか。

帰宅して、一番だし、二番だしを引いてから、お風呂に入る。 急に涼しくなったせいか、疲れを感じる。 舌が少し腫れているかのようで、一番だしの味見がぴんとこない。 湯船の読書は「宇宙消失」(G.イーガン著/山岸真訳/創元SF文庫)。 ハインラインの「異星の客」を読み終えたので、 もう一つ SF を、そしてずっとハードなのを、読んでみようかなと思って。 夕食の支度。 鰤の照り焼き、ピーマンの焼きびたし、酢大豆、玉葱と大葉の御澄まし、御飯。 夜は、「宇宙消失」を読んだり、鰤の残りの一部であら煮を作ったり。 煮詰め系の料理は何だか哲学的になるなあ。

小麦粉をまぶしたりするのに料理用の刷毛が欲しいと書いていたら、 奇特な方が遠方より贈り物して下さった。ありがたし。 照り焼きの出来が違いました。

2011年9月26日月曜日

Wフォン/鰤

そろそろ秋だろう、と判断して久しぶりに出勤。 何をしていたのかも忘れていたので、 自分の書いたスクリプトを見直したりしていると、 天才プログラマが最新の Windxws Phxne を見せびらかしに来た。 これは良く出来ている。びっくりした。ついにきたよ、MS 社。 「どうせ MS でしょ」という心理的バリアさえ壊せれば、大ヒットするかも知れない。 個人的には、このユーザインタフェースは iPhxne を越えている、と感じた。 まあ、iPhxne はやや方向性が違うし、信者も大勢いるから問題ないが、 問題は andrxid だ。

夕方退社して、スーパーで買い物をして帰る。 天然鰤のあらが安い。400 円以下。これだけあれば、かまを塩焼きにして、身の厚いところを漬け焼きか、 照り焼きにして、小さな身を椀物にして、残りはあら煮にすれば、一週間使えそうだ。 そんなわけで、 夕食のメインは鰤かまの塩焼、菠薐草のおひたし、山椒風味のどんこ昆布、卵と大葉の御澄まし、御飯。

2011年9月25日日曜日

林檎ジャムの孤独

初のザウアークラウト作りに成功して気を良くし、今度はキャベツ丸ごと一個分を漬けた。 いい味になってきたので瓶ごと湯煎にかけて発酵を止め、完成。 最近、買った林檎があまり美味しくないので、残った三つほどをジャムにする。 「殺し屋 最後の仕事」(L.ブロック著/田口俊樹訳/二見書房) を読みつつ、土鍋で林檎を煮る。隣りは何をする人ぞ的な、久保田万太郎の煮大根的な、 あるいは殺し屋ケラー的な孤独を堪能。 そのあと夕食の支度。 じゃがバタ、茹でキャベツ、菠薐草と稲庭うどんの御澄まし、御飯、自家製のふりかけ。

2011年9月24日土曜日

家庭料理の本、今と昔

お恥ずかしながら、私は料理や食に関する本をけっこう持っている。 まあ、今のところ 1m かける 2m の本棚一つか二つ分くらいなので、 大した量ではないけれども。 ほとんどは読み物として秘かに一人楽しんでいるものだが、 中には実践的に愛用している家庭料理の本もある。

家庭料理の本について言えば、新しいクックブックほど上手に、手軽に、なかなかの料理ができる。 しかし、新しい本のほとんど全てについて、まったく骨がない。 思想がない、と言ってもいい。一方で古い本には、思想と気迫のこもったものがある。 例えば、有名な本だが、辰巳浜子の「手しおにかけた私の料理」(辰巳芳子編/婦人之友社)である (辰巳浜子著の初版は 1960 年刊。上は復刻版で 1992 年刊)。以下はこの本から引用。

これからの時代は、現在より以上に、自立が要求されると思います。 それは、老いも若きも同様の比重で余儀なく負わねばならぬでしょう。

家事は、家庭を持つものにとっても、持たぬものにとっても、生活の基盤であり、 その管理は、生命を管理することにひとしいのであります。 家事の中の台所仕事は、一日も休むことのできぬ、必須仕事です。 ですから、何よりも台所仕事は、計画的、組織的に行わねばなりません。 計画性をともなわぬ台所仕事は、際限がないという重荷となります。 何事によらず荷はかるく、負うべきものは負う、 しっかり負うのが、人生です。

重い。 「何事によらず荷はかるく、負うべきものは負う、しっかり負うのが、人生です」。 重過ぎる、この言葉。聞いたかい、そこの「愛されレシピ」とやら、だしを引くだけでこの気迫だよ。 しかし、この薄い本を一冊マスタすれば、家庭料理については誰にも恥じるところはないだろう。 想像するに、この時代の料理本と言うものは、昔の NHK 料理番組もそうだったが、 「(擬似)姑による嫁指南」だったのである。 昔は、お嫁入りした翌日の早朝、「そこに直りなさい」とお勝手の上がり框の向こうに正座させられた上、 土間に仁王立ちした襷がけ姿のお姑さんに、上のようなお説教をされたものだ(あくまで想像)。 丁度、そんなお姑さんが絶滅しつつあり、本や TV 番組にそのヴァーチャルな役割の要求があったのだろう。 もちろん今では、そういった需要は想像の外である。

とは言え、この本のレシピ通りにしても、美味しいものができない。 昔と今では、簡単に入手できるレベルの素材や調味料の性質が違うので、 自分の舌で適当にアレンジしないと味が決まらないのである。 昔の家庭料理の本には一様に、この欠点がある。 さらに写真が入っていないか、入っていても色が悪くて目に楽しめないのも、 人によっては欠点かも知れない。 しかし、いつまでも読み甲斐があって、参考になるのはこういったクックブックだ。

2011年9月23日金曜日

真顔のひと

「パノラマニア十蘭」(久生十蘭著/河出文庫)より最後の「ボニン島物語」を読んで、読了。 巻末の文庫解説で歌人の石川美南さんが、十蘭の小説の主人公はたいてい真顔だ、と書かれていて、 うまいことを言うものだなと思った。 十蘭の主人公は、真顔で冗談を言い、真顔で大法螺を吹き、 真顔で恐しい苦難に耐え、真顔のままであっさり死ぬ。 言ってしまえば、何が何だか分からない。 しかし、そんなものだな、と腑に落ちて、そうありたいものだと思わせるところがある。 都会的、ますらおぶり、武士らしさ、矜持、どう言ってもちょっと違う気がするのだが、 いつも真顔の十蘭、とは言い得て妙。

2011年9月22日木曜日

人工衛星が人間に当たる確率

明日あたり人工衛星が地球に落ちてくる。 それがたまたま人間に当たる確率は、NASA の計算では 3200 分の 1 らしい。 高度なリスク評価なのだろうなあと思いつつ、「封筒の裏で」計算してみよう。

地球の一周の長さが約 4 万km ということは私も知っている。 これを円周率の二倍で割って半径は約 6 千 km、つまり 6 かける 10 の 6 乗メートル。 よって、地球の表面積はこの二乗かける円周率の 4 倍で、およそ 5 かける 10 の 14 乗平方メートル。 一方、人間一人が占める表面積をざっくり 1 平方メートル、人口をおよそ 60 億人とすると、 人間が占める表面積は 6 かける10 の 9 乗平方メートル。 よって、まったく一様かつ独立に人工衛星の破片が落ちてくるとすると、 その一つが人に当たる確率は以上二つの面積の比であって、1.2 かける 10 のマイナス 5 乗である。 人工衛星の破片は 26 個だそうなので、 このうちのどれか一つでも人間に当たる確率は、 上で求めた確率を 1 から引いた「その一つの破片が人に当たらない確率」の 26 乗、 つまり「どの破片も人に当たらない確率」を、さらに 1 から引いたものである。 この結果は約 0.00031、すなわち約 3200 分の 1 である!

以上の計算が示唆していることはおそらく、 NASA がサボっているということではなくて、 今のところ人類最高の頭脳と地上最高の技術をもってしても、 人工衛星の破片がどこに落ちてくるかは「地球表面にまったく一様にでたらめ」 と仮定するしかない、ということだろう。 ひょっとすると、26 個の破片を精密に追跡できた結果が、 うまい具合に平均化されて一様分布になるのかも知れないけれど。

2011年9月21日水曜日

ヘンライ

「異星の客」(R.A.ハインライン著/井上一夫訳/創元SF文庫) 。 休暇中の読書その三、 「アート・スピリット」(R.ヘンライ著/野中邦子訳/国書刊行会)。

芸術は、その本質が理解されたとき、人類全体のものになる。

それがなんであれ、ものごとがうまくなされているかどうか、というシンプルな問題だ — それは、どこかよそにある特別なことではない。

ある人の内部に芸術家の魂が息づいているとき、創作のジャンルにかかわらず、 その人はおのずから創意にあふれ、探究心をもち、大胆に自己表現しようとするはずだ。 そして、他人に興味をもつだろう。 周囲に混乱をもたらし、悩ませ、啓蒙し、よりよい理解に向かって道を切り開く。 ……(中略)……

そのような人がいなければこの世界はよどみ、そのような人がいれば世界は美しくなる。 ……

「アート・スピリット」(R.ヘンライ著/野中邦子訳/国書刊行会)、 「まず最初に — 芸術の魂とは」より

2011年9月20日火曜日

よなよな

折角だから、母から送ってもらったお金で贅沢をしよう。 熟考の結果、 近所のスーパーで立派な秋刀魚を一匹と「よなよなエール」を買った。 秋刀魚に塩をして焼き、熱々に酢橘を搾って食す。ビールを一杯だけ。 他に大豆のきんぴら、里芋の煮物、切干し大根と麩の味噌汁、御飯。 両親とは一年に一度以下しか会わないけれども、 せめては、 今年もありがとうございました母上様、と西の空に手を合わせておく。

「異星の客」(R.A.ハインライン著/井上一夫訳/創元SF文庫) 。 "Cauchy-Schwarz Master Class" (J.M.Steele 著/ Cambridge).

2011年9月19日月曜日

"Stranger in a Strange Land"

「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」 (S.ラーソン著/ヘレンハルメ美穂・岩澤雅利訳/ハヤカワ文庫)、読了。 休暇中の読書その二、 「異星の客」(R.A.ハインライン著/井上一夫訳/創元SF文庫) を読み始める。

「異星の客」は、 唯一人火星で生まれ、地球人を全く知らずに育った主人公が地球に連れてこられて、 全く知らぬ社会と文化を持つ(我々)人間たちと出会う騒動を描く、 SF 版の「ガリヴァー旅行記」や「キャンディード」といった趣きのおとぎ話。 小さな字が詰まった創元社の文庫で 800 ページ近くある大作なので、 いつかまとまった時間に読もうと思っていたのを、実行。 タイトルの「異星の客」は、旧約聖書の出エジプト記の以下の箇所に因んでいるとか。 「彼男子を生みければモーセその名をゲルシヨム(客)と名けて言ふ 我異邦に客となりをればなりと」(2:22)

2011年9月18日日曜日

「ミレニアム」

休暇の読書計画その一、 「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」 (S.ラーソン著/ヘレンハルメ美穂・岩澤雅利訳/ハヤカワ文庫) 。 上巻読了。下巻に入り、あともう少し。 「なんぼのもんや」と思って文庫版が出るのを待っていたのだが、 流石にぐいぐい読ませる。 ダークな「長くつ下のピッピ」、調査員リスベットがいい。

著者は「ミレニアム」シリーズを全十作として構想していたらしいが、 第一作が出版される前に著者が亡くなり、 書き上げて契約が済んでいた第三作までの三部完結になってしまった。 享年 50 歳。死因は心筋梗塞。 やはり、人生 50 年とは良く言ったもので、 そのあたりを道標にするのが妥当なのかも知れない。 私自身は成人以来、高い確率で 56 歳まで生きられるだろう、 と仮定して人生設計をしてきた(数字が半端なのは、7 年を単位にしているから)。 しかし、ここまで歳をとってみると、やや虫の良い仮定だろうな、と思う。 人は無限に生きられるように暮らす傾向がある。 それに歯止めをかけるのすらも下手だ。

2011年9月17日土曜日

父母からの手紙

母から、これでたまには美味しいものでも食べなさい、 と手紙を添えた金一封が届いた。 都会の案山子は清く貧しく寂しく過しています……ありがたや。 そして、父からはまたしても、短歌が添えられていた。 「天なるや月日のごとく我が思へる 君が日に異に老ゆらく惜しも」。 今回は万葉集だ。 天にある月や日のように私が思うあなたも、 日々過ぎて年老いていくのは残念なことだよ(拙訳)。 父上……これは嫌味ですか、エスプリですか。

あめなるやつきひのごとくあがおもへる
きみがひにけにおゆらくをしも きみがひにけにおゆらくをしも

2011年9月16日金曜日

休暇入り

仕事に目処もついたので、午後も早い時間に退社。 二度目の夏休みに入る。 神保町のカフェに珈琲豆を買いに立ち寄ってから、洋食屋へ。 いつもの通り、 怖そうなメガネの小柄なマダムがぴしぴしフロアを指揮している。 その勇姿を時々眺めつつ、 「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」 (S.ラーソン著/ヘレンハルメ美穂・岩澤雅利訳/ハヤカワ文庫) と生ビール。 そのあと、夕食にはかなり早いけれどもサーロイン・ステーキ。 日が落ちてきた頃、帰路につく。

2011年9月15日木曜日

再度、夏休み

夕方退社後、少し銀座を歩いていたので、帰りが遅くなった。 帰宅して、お風呂に入ってから、夕食。 大豆のきんぴら、里芋の煮物でヱビスビールを少しだけ。 メインは関西風お好み焼き。でもソースはおたふく。

あまりに暑いので、再度、短い休暇をとります。 明日金曜日の夕方から……秋が来るまで。 休暇の定義から自明ですが、その間、公には連絡がつきません。 ただし、一日一度 30 分程度はインタネットに接続しますので、 私用に限り、スロウな連絡は可能です。 あわてないあわてない、ひとやすみ、ひとやすみ。

なお、休暇中もこのページは毎 21 時に更新する心積もりでいますが、 確実ではありません。 内容はその日に読んだ本のタイトル程度の短いメモでしょう。

2011年9月14日水曜日

肩にかけるチェロ

寝台で夢うつつに「古楽の楽しみ」を聞いていたら、 肩にかけて弾くチェロ、 ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラなるものによる、 バッハの無伴奏チェロ組曲一番の演奏が流れてきた。 無伴奏の六番は通常のチェロより高い弦が一本多い楽器で演奏するよう作曲されていて、 それがどういう意味なのか謎なのだが、 このように肩に乗せたり、帯でかけたりして弾く小型チェロが想定されていたのでは、 という説がある。 実際、最近では、 普通のチェロで一本高い弦がないままに高音部を超絶技巧で弾くよりも、 五弦の古楽器で演奏されることも多くなってきた。 今日の演奏は一番のプレリュードだったのだが、 普通のチェロとはまた違った軽快な弓さばきで、面白い。思わず魅き込まれた。 うーむ、ひょっとしてこれがビルスマの言うところの、 「剣の達人、バッハ」("Bach, the fencing master")なのかも知れぬ。 これで六番を聴いてみたい。

昼休憩の神保町散歩。新刊書店で 「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女(上・下)」 (S.ラーソン著/ヘレンハルメ美穂・岩澤雅利訳/ハヤカワ文庫) などを買う。夕方、退社。 帰宅してお風呂に入ってから、夕餉の支度。 中秋の名月を忘れていたお詫びに、里芋を煮る。 本当は月に見立てて丸い里芋だけを切らずに煮るのだが、 そんな洒落たことをする柄でもない。普通の煮物。 夕食はひじきと大豆の煮物、切干し大根のはりはり漬け、 里芋の煮物、塩鯖に酢橘、素麺に海苔と酢橘。 食後に梨を一つ。梨が好き。

2011年9月13日火曜日

今日も真夏日

今日もかんかん照り。熱帯夜に真夏日。 夕方退社して神保町のカフェで一服。 そのあと、あまりの暑さに参ってしまって、 近所のバーで白ビールの生。 落ち着いてから、ついでの夕食をとり、 ビールをもう一杯だけ。セゾン・デュポンのバイオロジーク。 徒歩で家まで帰る。

気候が真夏なので、中秋の名月ということをすっかり忘れていた。 明日あたり里芋くらい煮るかなあ。

2011年9月12日月曜日

パワーランチ

かんかん照り。熱帯夜と真夏日はまだまだ続くようだ。 老後はもっと北の方か、もっと高い方に移り住みたいなあ。

いつもの朝食のあと、今日は幕張に出勤。 まず関係者とランチ。景気の良い頃にはこういうのを、 「パワーランチ」なんて言って気取ってなかったっけ。 社員食堂で寄り集まって相談しているだけでも。 そのまま午後も、大小のミーティング続き。 大きい方で十分程度のプレゼンテーション。 夕方終了。 帰宅して、お風呂ののち、夕食の支度。 普段になく昼食をとったので夕食は軽く、作りおきの惣菜と素麺。 食後に梨を一つ。

今日の情報弱者エピソード: その1。 パワーポイ○トでイラストを描く方法が分からず、 いっそのことスライド全部を、 自宅の壁にクレヨンで描いてデジタルカメラで撮影した画像で済ませた。 その2。 自動販売機のジュースを社員証で買う方法が分からず、 通り過がりの人に教えてもらった。 言い訳をするつもりはないが、 ジュースを選ぶボタンを押してから代金を払う(社員証をタッチする)のは、 直感に反するユーザインタフェースじゃないかな。

2011年9月11日日曜日

初秋刀魚

また熱帯夜。今日も真夏日。寝床で、 「パノラマニア十蘭」(久生十蘭著/河出文庫) より「幸福物語」と「手紙」を読んでちょっとしんみりしてから、起床。

洗濯機に洗濯を任せて、朝食の支度。 鯵のひらき、ひじきと大豆の煮物、切干し大根のはりはり漬け、 伊丹流ねこまんま。 お風呂に入ってから、しばらく昼寝。 午後は、 「パーフェクト・ライフ」(M.スチュワート著/高澤真弓訳/創元推理文庫)を読んだり、 掃除機がけをしたり。 そのあと夕方まで FM ラジオを聞きながら、 もどしておいた大豆を使ってきんぴらや酢の物など、 料理の仕込み。

夕食は今年初秋刀魚。さすがにちょっと早いだろうが、 気持ちだけでも秋を迎えるつもりで。 秋刀魚を焼いて、青き蜜柑ではなくて酢橘を搾って食す。 あはれ秋風よ情(こころ)あらば傳へてよ、 男ありて夕餉にひとりさんまを食らひて思ひにふける、と。 ところで、 佐藤春夫は酒を飲まず、食について書いたり言ったりすることを蔑んでいた。 実際、酒や食を歌った詩はほとんどない。 それでも、どうしても秋刀魚にこぼれた苦しみ、 というところに「秋刀魚の歌」の味がある。 同郷の詩人に肩入れするわけではないが、 「さんま苦いか鹽つぱいか。」 の箇所だけを安易に引用されると、 分かっちゃいないな、と一言は言いたくなるのである。 ここは、抑え切れなかった慟哭の味なのだから。

2011年9月10日土曜日

情報弱者

朝風呂。 朝食は煮麺。 そのあとちょっと昼寝、と思ったら 3 時間半も寝てしまった。 夕べは熱帯夜で 8 時間しか眠れなかったからかな。 夕方まで 「パーフェクト・ライフ」(M.スチュワート著/高澤真弓訳/創元推理文庫)を読んだり、 ひじきと大豆の煮物を作ったり。 大豆は前日までに戻して茹でておいたので、あとは簡単。 五目煮にしたかったのだが、外が蒸し暑すぎて買い物に出られず。 竹輪とか練り物を入れると、ぐっと美味しくなるのだが。 夕食は、鯵のひらき、ひじきと大豆の煮物、 切干し大根のはりはり漬け、御飯、若芽と麩の味噌汁。 最近、お味噌汁にお麩を入れるのがお気に入り。

私の勤め先は言わゆるIT企業で、特に携帯端末の関連事業が柱の一つである。 社員には、携帯端末を三種類持って使いこなしている、なんて人が大勢いる。 一方で私は、 実機デモを見るために初めてスマートフォンを手にしたとき、 まず電源を入れられなかった。 次に、「ロック」の外し方が分からなかったし、 さらに、「スイッチはどうやって切るの?」と人に訊いた。 そのとき以来、社内では「情報弱者」の烙印を押されている。 院生時代に、 指導教授がフロッピーディスクのケースを開けられないのを見て、 (影で)笑ったものだったが、 スマートフォンの電源を入れられないのも大差ない。 その他に、最近で使い方がよくわからなかったものとしては、 MSパワーポ○ントや g○○gle 共有カレンダなどがある。 ホワイトボードの方が便利だよ、とか、 紙の手帳の方が便利じゃん、 などと真顔で言っては失笑されている。 デジタルテレビのリモコンも (実際に見たことはないので定かでないが)、 おそらく使い方が分からないと思う。

2011年9月9日金曜日

十蘭文庫

台風の影響なのか、蒸し暑い。秋はいったいどこへ。 夕方退社して、近所のカフェで一服。 短編集 「パノラマニア十蘭」(久生十蘭著/河出文庫) より、「『女傑』号」、「巴里の雨」などを読む。 夜は下北沢の魚屋にて、K 大の S 君と会食。 しばらく帝都に滞在の予定らしい。

十蘭再評価の気運なのか、 最近、文庫で色々な短編集が出るのはジュウラニアンとして嬉しい。 十蘭は文庫にあうような気がする。 もちろん、だからと言って、これを切っ掛けに十蘭の読者が拡がるだろう、 などとは思わない。 十蘭が広い読者層を獲得するなんて天地が返ってもありえず、 十蘭の読者は今も昔も常に極小マイノリティであり、 そのことを「選ばれしもの」として自負しているのである。 ちなみに文庫版十蘭の中で私の一番のお気に入りは、 (ずいぶん古い本だけれども) 「昆虫図」(久生十蘭著/現代教養文庫)。 「昆虫図」、「水草」、「骨仏」 といった数ページの超短篇が収められているのがいい。

2011年9月8日木曜日

秘密基地

台風が過ぎても、まだまだ暑い東京。 夕方退社して、一旦帰宅し、簡単に食事を済ませて再び外出。 夜は、デリバティヴ研究部会のセミナに出席。

昨日の朝、猫が見当らなくて、あちこち探したら、 玄関の靴棚にみっしりと納まり込んで寝ていた。 一見は、棚に灰色の毛布を押し込んだような風情。 玄関の片側が収納兼、作りつけの靴棚になっているのだが、 その扉の下 10 センチほどの隙間を通り抜けて、 中に入れることに気付いたらしい。 ねこは「わたしの秘密基地、発見」 と思っているようなので、私の方は知らないふりをしてやっている。

2011年9月7日水曜日

人生をコンプリートする

朝夕はかなり涼しく感じられてきたが、昼はまだ日差しが厳しくて暑い。 夕方にミーティングがあったので、少し遅い帰宅。 夕食はまた塩鯖。

翻訳に興味があるものだから、英語の文章を読んでいると、 ああこれは訳し難いだろうな、と思うことがある。 うまく言えないのだが、「大き過ぎる」単語があって、 日本語に移そうとするとどうしても一言では言えない。 例えば、C.オコンネルの "Crime School" からの引用の以下の段落では、 "complete" と "home" などがそうだ。(強調は私による)

The little girl was screaming death threats at the top of her tiny lungs while Lou Markowitz grinned broadly and foolishly. His life was complete. His wife was busy ripping the passenger door off its hinges, and Kathy was almost home.

人生が完全になった、満たされた、では少し違う。もっと大きく、重い。 プレスリーの「ラヴ・ミー・テンダー」に、 "You have made my life complete, and I love you so." という歌詞があるが、それも同じだ。 「あなたは私の人生を complete にしてくれた」、 それはどういう状態のことなのか。 単に満たされた、ということではないだろう。 人それぞれによって違うのかも知れない。 あなたにとって、人生が "complete" する、とはどういうことなのか。 やりがいのある仕事に恵まれ、生涯の伴侶と出会い、 愛する人の子を産み、その唇に自分の乳をふくませるときのことかも知れなければ、 あるいは、この世でなすべきことをなし、残したことはない、 と静かに一人孤独の中で死を迎えるときのことかも知れない。 実際、"complete" には生と同時に死の匂いがする。 または、人生が "complete" することなど、誰にとってもありえないのかも知れない。 とにかく、そういうことを全て大きく囲んだ言葉であり、 他の言葉に移し変えるのが難しい。

おかしな喩えかも知れないが、万葉集を読むのに似ている。 万葉歌は大き過ぎて、よく分からない。 直球剛速球に過ぎて、よく見えない。 「こひこひてあへるときだにうるわしき ことつくしてよながくとおもはば」なども、 さすがに私も日本人だから心にじんとは来るのだが、 頭で理解しようとすると子供が詠んだ歌のようにしか見えず、 ああ、この大きさが私には分からないのだな、と思う。 その証拠に、現代語訳をしてみると、なんだか馬鹿馬鹿しい。 「恋しくて恋しくて、会えたときだけでも、 きれいな言葉を尽してください、長く続けようと思うなら」、 としか訳せないが、つまらない。まるで違う。 おそらく、一つ一つの言葉がカバーする領域が今よりずっと大きく、 今では想像もできないほど一つ一つの言葉に力があり、 この歌を声に出して詠めば誰の心も大きく震えるくらいだったのだろう。

2011年9月6日火曜日

ペイジターナ

切り良くすることがなくなったので、午後も早い時間に退社。 スーパーで買い物をして帰宅。 お風呂に入って、湯船で読書。 "Crime School" (C.O'Connell 著/ Jove) が佳境に入り、キャシー・マロリーと犯人「案山子」との対決のシーンに至った。 ペイパーバックを持ったままお風呂から出て、 作りおきの七味蒟蒻、オクラのおひたしなどを順に食べながら、 読み続ける。 ちゃんとした料理を作る暇が惜しくて、 最後はサッポロ一番みそラーメン。 そして、読了。面白かったなあ……。 次はシリーズ 7 作目の "Dead Famous" だが、 ちょっと休憩して、他のものを読もう。

2011年9月5日月曜日

サバかタチウオ

曇り空の一日。 夕方、退社。近所のカフェで一服してから帰る。 夕食のメインは塩鯖。 他に作りおきの二品と、しめじとお麩の味噌汁、御飯。

私が子供の頃、魚と言ったら鯖か太刀魚で、 あまりに食卓に上るのでうんざりしていたくらいだが、 今になってみると懐しい味。 鯖は塩鯖を焼くか、梅干しと一緒に濃口に煮付ける。 太刀魚は塩焼か、薄く煮付けるかのどちらかだった。 これがヘヴィ・ローテーション。 貧しかったんだねえ…… 鯛なんて正月だけだった。 大晦日に何とも筆舌に尽し難い香ばしい匂いが漂ってきて、 裏庭で一斗缶に炭を入れて大きな鯛を焼いているのを見つけると、 「おお、たいだぞ、たい。たいだ、たいだ」と高揚したものだ。 喩えて言えば、 長年の撤退戦の果てに海に辿り着いて 「タラッタ、タラッタ(海だ、海だ)」と一同抱き合って泣いた、 という「アナバシス」のギリシア兵なみの高揚感だった。

それが今や、鯛はやっぱり桜蒸しだよね、純米酒には一番あうよね、 賀茂鶴純米ありますか、なければここは敢てシャブリでも悪くない、 キリメンジャンじゃないよキンメリジャン、 なんて通ぶったことを言ってるわけだ。 大人になるまで刺身も食べたことがなかったのに。 これをスノッブと言わずして、何と言う。 ほんと、恥ずかしい。強く反省したい。 魚は鯖か、太刀魚だよ。

2011年9月4日日曜日

トゥ・ビー・コンティニュード

ああ良く寝た。週末用の和風朝食。 朝風呂。 今日は NHK-FM が一日ジャズ特集をしているので、 ずっと BGM に聞き流しながら、洗濯や掃除機がけなどの家事。 それ以外の時間は、"Crime School" (C.O'Connell 著/ Jove) の最後のあたりを読んでいた。あと数十ページは、 明日からの週の楽しみにおいておこう。 まだまだ蒸し暑いけれども、 個人的に夏の終わりを祝ってみようかな、と思い、 夕食はキリンの「秋味」ビールに、 ソース焼きそば、ポテトサラダなど。 ささやかでちっちゃな幸せを満喫。 自家製のザウアークラウトも順調に発酵しているみたいだし。

シリーズ第四作の「天使の帰郷」(C.オコンネル著/務台夏子訳/創元推理文庫) で西部劇のモチーフが登場したが、 第六作 "Crime School" でも再び西部劇テーマが現れ、 架空のB級西部劇小説「ウィチタ・キッド」シリーズが物語の鍵になる。 この架空の小説の主人公は通称ウィチタ・キッドと保安官の二人で、 保安官は犯罪者であるキッドを常に追跡し、 キッドは秘密を胸に秘め逃亡生活を送っている。 そして、どの巻もキッドが絶体絶命の状態で終わる。 しかし、次の巻の冒頭では思いがけない方法で危機を脱出し、 巻末ではまたしても次の危機にあう。 これが延々と繰り返されていくシリーズらしい。 昔の連続短篇映画みたいなもので、 主人公が簀巻きにされて線路に放り出され、 向こうから機関車が近付いてきたところで、 "To be continued..." となるわけだ。 架空の小説なので絶対に読めないのだが、 「ウィチタ・キッド」シリーズ、読んでみたい。 "Crime School" の終わりのあたり、 この「ウィチタ・キッド」シリーズの各々別の一冊を十五年前に読んだ老売春婦たち一人一人に、 シリーズを読破した天才チャールズ・バトラーがその「つづき」 を教える代わりに目撃証言を集める、という印象深いシーンがある。 よくこんな変なことを思いついたものだ。

「ええと、『帰郷』では、最初に死んだカウボーイが実は殺人者だったことが分かるんです。奴はギャングの仲間で、ウィチタの父親を殺し、牛を盗んだ犯人だった」
「だから、キッドの母親はダンスホール勤めになったのね、ずっと不思議に思ってた。彼女はフランクタウンで唯一、教会に通う売春婦だったんだから」
「そうですね」とチャールズは言った。「酒場で働くか、飢え死にするしかなかった。子供がいたし。それで、この本では、ウィチタは目的をほとんど果たして、フランクタウンに隠れていたギャングの最後のメンバーを追い詰める。そして決闘で殺す」
「保安官はキッドを逮捕するの?」
「いいえ」
「じゃあ、キッドは街を離れるのね、でしょ?また逃げるのね?」
「いや、今度は違うんです」チャールズは気付いた。彼女は『帰郷』がシリーズ最終巻だと知らないのだ。
「ウィチタが諦める、って言うの?」彼女はチャールズの見えすいた表情から、もっと悪い運命を読みとった。「いやよ……キッドが死んだなんて言わないで!絶対にそんなこと言わないで!キッドが死ぬなんてありえないのよ!」
部屋の中で全ての会話が止まり、十人の売春婦がウィチタ・キッドの喪に服した。

マロリーは暗闇の中に座り、目を閉じて、頭をゆっくりと左右に振っていた。
彼女には『帰郷』という本のことは思い出せなかった。

ライカーは沈黙がやむのを待っていた。やがて、売春婦たちが寄り集まった。まだ解けていない問題があったから。
「じゃあ、馬がどうなったのか教えて」ミニーが言った。「ブレイズ号は本の最後で断崖から転げ落ちた。せめて、あの馬は死ななかったと言って」
「そうだな、ブレイズの奴が酷い目にあったらしいことは俺も知ってるよ。だが、あの馬は次の本でまた登場する。実は、あのインディアンの少女が……」
「灰色鳥ね?ウィチタ・キッドのことが好きだった。キッドはほとんどの本の中で、あの娘の話をするのよ」
「そう、その娘だ。彼女は魔法と薬草で馬を看病する。その娘は身代わりに死ぬが、馬は新品同様に元気になるのさ」
「ロマンチックじゃない?」
「ああ」

"Crime School" (C.O'Connell/Jove) より。訳文は原による。

2011年9月3日土曜日

ザウアークラウト

珈琲で目を覚ましたあと、しばらくして遅めの朝食。 週末用の和朝食。 鯵のひらき、蒟蒻としめじのきんぴら、納豆、 小松菜と油揚げの味噌汁、御飯。 朝風呂に入って、湯船で 「交遊録」(吉田健一著/講談社文芸文庫) より「吉田茂」の章を読み、「交遊録」を読了。 お風呂のあと、 寝台に横になってステイシー・ケントのアルバム "Breakfast on the morning tram" を聴いていたら、 いつの間にか、いつものように 3 時間ほど昼寝してしまっていた。

昼寝のあとは、某雑誌の書評原稿の校正をしたり、 お仕事用の資料としてクレヨンで壁にマンガを描いたり、雑用を少々。 合間にポテトサラダを作り、 じゃが芋を蒸している間に、七味蒟蒻と、オクラのおひたしも作った。 夕食はポテトサラダ、トマトと玉葱のスライス、 しめじとベーコンのアーリオオーリオ。

この blog 記事 'Easy Sauerkraut' (from 'Stumbling Homestead') を読んで、 ザウアークラウトを仕込んでみたのだが、 こんな簡単なことでうまくできるのだろうか……、 と毎日、瓶の中の様子を見ている時間が、最近のささやか過ぎる小確幸。

2011年9月2日金曜日

トランプを覚える

夜中に激しい雨が降っていたような気がするのだが、 目が覚めたら窓の外は強い日差し。 いつもの朝食。 珈琲、オレンジジュース、バタートースト、ベーコンエッグ、小松菜ソテー、トマト、 ドライフルーツ入りのヨーグルト。 朝から蒸し暑い中を歩いて出社。 夕方、退社。 不穏な黒い雲が空にもくもくと流れているのに、 今日もまた、雨が全く降らず蒸し暑いだけ。 北極圏の "Ice hotel" は無理でも、銀座の "Ice bar" に行きたいくらい。 とは言え、地下鉄に乗る元気もなくて、 近所のカフェで一服。豆 100g を買って帰る。

「 ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由」 (J.フォア著/梶浦真美訳/エクスナレッジ) を読んで、 これなら出来るんじゃないかな、と思い、 でたらめに切ったトランプの順番を覚えるという芸当を暇なときに訓練している。 今のところ、各スートのAから6まで合計 24 枚の順番を数分程度で暗記できるようになった。 まだ 52 枚すべての半分にも満たないが、「やればできるな」という印象。 ただし、記憶力競技の世界レベルでは 52 枚を 30 秒以下で暗記するらしく、 タイムトライアルの意味では全然その水準におよびそうにない。 しかし、おそらく 10 分で全カードを覚えるのは可能、と見た。 とは言え、覚えるのに 10 分もかかるようでは芸にもならず、 それが何の役に立つのか、と訊かれると大変に弱るのだが。

2011年9月1日木曜日

あなたと氷ホテルへ

奇妙なくらい蒸し暑くて寝苦しい夜だった。 今日も、今にも雨が降り出しそうなのに一滴も降らず、 蒸し暑いだけの一日。 夕方、退社。 帰宅してお風呂に入ってから、 ステイシー・ケントの歌声を聞き流しながら、夕食の支度。 鰤の照り焼き、しめじと蒟蒻のきんぴら、納豆、 小松菜と油揚げの味噌汁、御飯。 その合間に、キャベツの漬物も仕込んだ。

小説家のカズオ・イシグロはステイシー・ケントの大ファンらしくて、 主にスタンダートしか歌わないケントに、いくつかオリジナル曲用の詩まで提供している。 このつながり、分かるような分からないような。 その提供曲の中に "The ice hotel" という曲があって、 夏が大嫌いな私にぐっとくる。 あなたと二人旅行をするなら、北極の「氷ホテル」に行きましょう、 という歌詞。行きたいなあ、氷ホテル。 どこもかしこもマイナス5度で、何もかも氷で出来ているらしい。 寝台の形に切った氷の塊の上にトナカイの毛皮にくるまって寝て、朝になって無事だったら、 外に散歩に出て、氷原に昇る日の出を眺めるんだそうだ。ラヴリィ、インディード…… 行きたいなあ、氷ホテル。