2010年7月15日木曜日

未来予測

一旦6 時くらいに目が覚めたのだが、 「バロックの森」を聴きながらうとうととしているうちに、 二度寝していた。9 時起床。ああ良く寝た。 バロックは良く眠れる。特にバッハのチェンバロ協奏曲が効いた。 珈琲とパパイヤ四分の一の朝食のあと出勤。 午前、午後とお仕事。 昼食は持参のお弁当。時鮭、酢漬けキャベツとベーコンの蒸し煮、 焼き野菜のオリーヴオイル漬け、らっきょう、紅生姜。 昼休みに本屋で「殺し屋」(L.ブロック著/田口俊樹訳/二見文庫)を買った。 数日間の一人ブレインストーミングの結果、翻訳のタイトルの最終案を決定。 色々と悩んだわりには、素直な書名に辿りついた。 おそらくこれで編集会議を通してもらえるんじゃないかと期待。 16 時半くらいに退社。 近所のスーパーで食材を買って帰宅。 お風呂に入って、湯船で 「殺し屋」から短編を一つ読む。 何ということはない話だが、しみじみした。 夕食は、トマトと胡瓜のサラダ、カレーライス、蕪の漬物、食後にパパイヤとヨーグルト。

最近、近未来のテクノロジーとかインタネットのありようなどについて考えることがあるのだが、 私の(おそらく当たらない)予測として、 将来は今ある技術が全て見えなくなるのではないだろうか。 私は自宅で部屋を見渡して思うのだが、 「文明の利器」はほとんど全て、不恰好でみっともなくて貧乏臭いと思う。 テレビもクーラーもパソコンも電話も携帯電話も様々なガジェットもそうだ。 大体、「豊かな生活」を頭の中で想像するとき、 こういう製品がその夢の中に現れるだろうか。 人間が貧しいときは、電化製品なりガジェットにあふれた生活を、 豊かさとして想像するだろうが、それは今が貧しいからだ。 人間が豊かな生活を目指すならば、 徐々にこういうものは目に触れなくなるだろう。 なくなるのではない。技術は背後に隠れてどんどん見えなくなって、 より魔法に近くなる。 N.N.タレブが「まぐれ」の中に、 医療や便利さや快適さは現代のまま、 十九世紀に暮らしたい、というようなことを書いていた。 十九世紀がいいかどうかは別として、何となくその気持ちが分かる。 ニール・スティーヴンスンの「ダイヤモンド・エイジ」には、 ナノテクノロジーが異常に発達して、 そのような魔法が可能になった未来世界が出てくる。 そこでの主要国家都市の一つでは、 人々はヴィクトリア朝時代を模倣して暮らしているのだった。

明日の夜は会食の予定がありますので、更新がかなり遅くなるか、 あまりに遅くなるようならスキップします。 今週は何故か、会食の予定が集中するなあ……。