週末だし、ちょっとスペシャルなことをしよう、と思い、 朝食にスパゲティ・ナポリタンを作る。 他にカフェオレ、林檎ジャム(自家製)とヨーグルト。
退社後、神保町のカフェへ。 「我が屍を乗り越えよ」(R.スタウト著/佐倉潤吾訳/ハヤカワ・ミステリ 439) を読みながら、一服。 表参道に移動して、 映画「サヴァイヴィング・ライフ」 (J.シュヴァンクマイエル監督 / 2010年) を観る。 もし空いていれば、今は骨董通りのバーにいるはず。
--- Silent Life of Dr. Hara, II
``The initial mystery that attends each journey is:
how could the traveller reach his starting point
in the first place."
(「全ての旅にまつわる最初の謎:
その旅人はそもそもどうやって出発点に辿りついたのか」)
ルイーズ・ボーガン(詩人)、訳文は原による。
週末だし、ちょっとスペシャルなことをしよう、と思い、 朝食にスパゲティ・ナポリタンを作る。 他にカフェオレ、林檎ジャム(自家製)とヨーグルト。
退社後、神保町のカフェへ。 「我が屍を乗り越えよ」(R.スタウト著/佐倉潤吾訳/ハヤカワ・ミステリ 439) を読みながら、一服。 表参道に移動して、 映画「サヴァイヴィング・ライフ」 (J.シュヴァンクマイエル監督 / 2010年) を観る。 もし空いていれば、今は骨董通りのバーにいるはず。
昨夜は就眠儀式に、「十蘭万華鏡」(久生十蘭著/河出文庫)より 「花合せ」を読んで寝た。 こういうさらっとしたのも良いなあ。 贅沢は敵だという戦時の空気が覆うなか、 全く構わず「自分のいちばんいい生活をするのがほんとう」 と言って豊かに暮らしているランチェ美女に誘われたけれども振りました、 というだけの話。しかし、飄々とした雰囲気と、 読後にぽんと放り出される感じが何とも言えない。 ところで、十蘭は着物美女の描写がどうやら凄いらしいのだが、 何せ無粋で着物も女性もあまり知らない私には、いつも良く分からない。 と言っても、洋服なら分かるかと言うと、半分くらいかな、という感じ。
ほんのざっとした身装だが、茄子紺の地に薊を水玉のように白くぬいたアンプリメの服と、 桃色珊瑚の薊の花の襟留(ラバ)が微妙なまでに調和して、 見ているうちにあだやおろそかな趣味ではないことがわかってきた。
また千子の美しさというのも、どこといって眼をうつようなところがないくせに、 見ているとだんだん美しさをましてくるというふしぎな美しさで、 花というよりは、とりたてのセロリとか西洋独活(アスペルジユ)とか、 そういう新鮮な野菜を連想させるのがみょうだった。
独活の大木は聞いたことがあるけど、西洋独活の美女は初めてだ。 ちなみに、独活はひとりでに動いているように見えるから独活って書くんだよ(豆知識)。
いつもの朝食のあと出勤。 夕方退社。 帰宅して、干し椎茸とだしを引いたあとの昆布でどんこ昆布を作る。 前回は山椒を使ったので、今度は七味にしてみた。 そのあと夕食の支度。 鰤のあら煮、酢大豆、ピーマンの焼きびたし、切干し大根と麩の味噌汁、生姜御飯。 夜は読書など。「宇宙消失」(G.イーガン著/山岸真訳/創元SF文庫) 、読了。 時々 SF 小説を読むのは精神衛生上良い、と言うか、精神の若さのチェックになる。 思えば、SF というジャンルも、十蘭と同じく著しく読者を選ぶようだ。
いくらでも眠れそう。覚醒とは本来不快なものですね。 カフェオレで目を覚まし、平日の洋風朝食のあと、出勤。 夕方退社して、近所のカフェで一服。 しばらく「宇宙消失」(G.イーガン著/山岸真訳/創元SF文庫) を読んで、珈琲豆を買って帰る。帰宅して夕食の支度。 鰤の漬け焼き、山椒どんこ昆布、酢大豆、鰤と大葉と生姜のお椀、生姜の炊き込み御飯。
昨夜、寝台で「宇宙消失」を読んでいると、 コインを 900 回投げるうちに 10 回以上連続で表が出る確率は 3 分の 1 以上、 という記述があったので、ルイス・キャロルよろしく枕頭の暗算で確かめてみようかなと思った。 しかしほぼ同時に、この問題は難しいんだよなあ、と思い出して、そのまま寝てしまった。 この問題は初歩の確率を学ぶとすぐに計算したくなる一見は易しげな問題だし、 古典的な結果でもあるが、暗算でできるほど易しくない。
まずは、n 回投げたところで初めて 10 回連続表を達成する確率にブレイクダウンするのが味噌で、 これを思いつかないと多分解けない。 (ちなみに、初めて起こった時間や場所で事象をスライスするこのテクニックは、 数学者の道具箱の中でも特に、一般的で強力なトリックである。) ところが、その確率を求めるのも易しくない。 そこで、それらの間の漸化式を立てるのだが、それもまた易しくない。 さらに、それを解くのも易しくないので、母関数を求めるのだったと思う。 この問題を解くもっと易しい方法があるのかどうか知らない。
いつもの朝食のあと出勤。 出社して、数値計算などして遊ぶ。と言っても、こういう場合、 遊んでいたのは私ではなくて計算機の方なのだろうか。
帰宅して、一番だし、二番だしを引いてから、お風呂に入る。 急に涼しくなったせいか、疲れを感じる。 舌が少し腫れているかのようで、一番だしの味見がぴんとこない。 湯船の読書は「宇宙消失」(G.イーガン著/山岸真訳/創元SF文庫)。 ハインラインの「異星の客」を読み終えたので、 もう一つ SF を、そしてずっとハードなのを、読んでみようかなと思って。 夕食の支度。 鰤の照り焼き、ピーマンの焼きびたし、酢大豆、玉葱と大葉の御澄まし、御飯。 夜は、「宇宙消失」を読んだり、鰤の残りの一部であら煮を作ったり。 煮詰め系の料理は何だか哲学的になるなあ。
小麦粉をまぶしたりするのに料理用の刷毛が欲しいと書いていたら、 奇特な方が遠方より贈り物して下さった。ありがたし。 照り焼きの出来が違いました。
そろそろ秋だろう、と判断して久しぶりに出勤。 何をしていたのかも忘れていたので、 自分の書いたスクリプトを見直したりしていると、 天才プログラマが最新の Windxws Phxne を見せびらかしに来た。 これは良く出来ている。びっくりした。ついにきたよ、MS 社。 「どうせ MS でしょ」という心理的バリアさえ壊せれば、大ヒットするかも知れない。 個人的には、このユーザインタフェースは iPhxne を越えている、と感じた。 まあ、iPhxne はやや方向性が違うし、信者も大勢いるから問題ないが、 問題は andrxid だ。
夕方退社して、スーパーで買い物をして帰る。 天然鰤のあらが安い。400 円以下。これだけあれば、かまを塩焼きにして、身の厚いところを漬け焼きか、 照り焼きにして、小さな身を椀物にして、残りはあら煮にすれば、一週間使えそうだ。 そんなわけで、 夕食のメインは鰤かまの塩焼、菠薐草のおひたし、山椒風味のどんこ昆布、卵と大葉の御澄まし、御飯。
初のザウアークラウト作りに成功して気を良くし、今度はキャベツ丸ごと一個分を漬けた。 いい味になってきたので瓶ごと湯煎にかけて発酵を止め、完成。 最近、買った林檎があまり美味しくないので、残った三つほどをジャムにする。 「殺し屋 最後の仕事」(L.ブロック著/田口俊樹訳/二見書房) を読みつつ、土鍋で林檎を煮る。隣りは何をする人ぞ的な、久保田万太郎の煮大根的な、 あるいは殺し屋ケラー的な孤独を堪能。 そのあと夕食の支度。 じゃがバタ、茹でキャベツ、菠薐草と稲庭うどんの御澄まし、御飯、自家製のふりかけ。
お恥ずかしながら、私は料理や食に関する本をけっこう持っている。 まあ、今のところ 1m かける 2m の本棚一つか二つ分くらいなので、 大した量ではないけれども。 ほとんどは読み物として秘かに一人楽しんでいるものだが、 中には実践的に愛用している家庭料理の本もある。
家庭料理の本について言えば、新しいクックブックほど上手に、手軽に、なかなかの料理ができる。 しかし、新しい本のほとんど全てについて、まったく骨がない。 思想がない、と言ってもいい。一方で古い本には、思想と気迫のこもったものがある。 例えば、有名な本だが、辰巳浜子の「手しおにかけた私の料理」(辰巳芳子編/婦人之友社)である (辰巳浜子著の初版は 1960 年刊。上は復刻版で 1992 年刊)。以下はこの本から引用。
これからの時代は、現在より以上に、自立が要求されると思います。 それは、老いも若きも同様の比重で余儀なく負わねばならぬでしょう。
家事は、家庭を持つものにとっても、持たぬものにとっても、生活の基盤であり、 その管理は、生命を管理することにひとしいのであります。 家事の中の台所仕事は、一日も休むことのできぬ、必須仕事です。 ですから、何よりも台所仕事は、計画的、組織的に行わねばなりません。 計画性をともなわぬ台所仕事は、際限がないという重荷となります。 何事によらず荷はかるく、負うべきものは負う、 しっかり負うのが、人生です。
重い。 「何事によらず荷はかるく、負うべきものは負う、しっかり負うのが、人生です」。 重過ぎる、この言葉。聞いたかい、そこの「愛されレシピ」とやら、だしを引くだけでこの気迫だよ。 しかし、この薄い本を一冊マスタすれば、家庭料理については誰にも恥じるところはないだろう。 想像するに、この時代の料理本と言うものは、昔の NHK 料理番組もそうだったが、 「(擬似)姑による嫁指南」だったのである。 昔は、お嫁入りした翌日の早朝、「そこに直りなさい」とお勝手の上がり框の向こうに正座させられた上、 土間に仁王立ちした襷がけ姿のお姑さんに、上のようなお説教をされたものだ(あくまで想像)。 丁度、そんなお姑さんが絶滅しつつあり、本や TV 番組にそのヴァーチャルな役割の要求があったのだろう。 もちろん今では、そういった需要は想像の外である。
とは言え、この本のレシピ通りにしても、美味しいものができない。 昔と今では、簡単に入手できるレベルの素材や調味料の性質が違うので、 自分の舌で適当にアレンジしないと味が決まらないのである。 昔の家庭料理の本には一様に、この欠点がある。 さらに写真が入っていないか、入っていても色が悪くて目に楽しめないのも、 人によっては欠点かも知れない。 しかし、いつまでも読み甲斐があって、参考になるのはこういったクックブックだ。