2012年1月19日木曜日

愛するとは同じ方向を見ること

いつもの朝食のあと出勤。 今日は冷蔵庫事情によりお弁当はお休み。 昼食は近所の中華料理屋にて。 夕方退社。 夕食はひょうたんかぼちゃの煮付け(まだ残っている)、 蕪の酢漬け(まだまだ残っている)、カレーライス、 食後にレモンティとティラミスゥ(まだ食べ切れない)。 夜は読書など。 「サン=テグジュペリ著作集3 『人生に意味を』」(サン=テグジュペリ著/渡辺一民訳/みすず書房)、 読了。

サン=テグジュペリに、 「愛するということは、おたがいの顔を見あうことではなくて、 いっしょに同じ方向を見ることだ」 という言葉があって、 幸せなカップルによく引用される。 しかし、それは誤読とまでは言わないが、やや不適切な引用なのではないか、と思う。 この言葉は「人間の土地」(堀口大學訳/新潮文庫)にあるのだが、 それが書かれている箇所は有名な「軍曹の目ざめ」のエピソードの直後である。 ある男が穏やかな日常生活を捨てて、ある日、戦地に赴き、死を目指す。 まさに機関銃の前に身を踊らせようとする前夜の眠りと目ざめを描写した場面だ。 「同じ方向」とはこの男の視線の方向だろう。 ここには、同じく有名な「家鴨」と「羚羊」のエピソードも含まれる。 渡り鳥の季節になると、家鴨も飛ぶ真似をし始める。 家鴨の暗愚な頭の中に突如、見たこともない巨大な空の旅の海図や潮の香りが、 朧げに浮かぶのである。 家鴨は突如として、地面を、蚯蚓を、蔑む。 飼われて育った羚羊がある時、何故かしきりに柵を頭で押す。 自分でもどうしてか分からないし、一度もそうしたことさえないにも拘らず、 羚羊の本然が全力で走ることを、そしてその最高点でライオンに食われても、 全力で跳ぶことを求めるのだ。

テグジュペリがそこで書いたことは、 フランスが戦争の中で全体主義に押しつぶされ滅びそうになっていたときに、 彼が「行動」によって辿りついた思想のエッセンスであり、 それはテグジュペリの最良の部分であって同時に、最も危険な部分でもある。 実際、彼自身も自分の思想が、彼が戦おうとした敵の思想とどこが違うのか、 きちんとは分析できなかった。 この「同じ方向」とは、 そこで人間の本然が真に自由に解放され、 人間の生きる意味が完全に明らかになる方向、 そこで人間が成就し、消滅するかも知れない地点だろう。 私は無神論者だが、敢て喩えれば、神と「顔を対せて相見ん」時かも知れない。 その意味では、この非常に有名な言葉が引用されるときは、 正反対を指してしまっているか、 またはあまりに概念が違うために間違いですらない、 という場合がけっこうあるんじゃないかと思う。

なお、この「軍曹の目ざめ」、「家鴨」と「羚羊」のエピソードは、 スペイン内戦時のルポルタージュに初めて現れ、 後に「人間の土地」にまとめ直されたものである。 以下はそのルポの最後で、テグジュペリが「軍曹」に捧げた結語。

「きみに失うべきなにものがあろうか? きみがバルセローナでしあわせでいたとすれば、 きみのその幸福をそこなわずにすんだであろう。 しかしきみは、あらゆる愛情がもはやひとつの尺度しかもたぬ高みに逹したのだ。 きみが苦しんだとしても、きみが孤独であったとしても、 きみのからだが赴くべきいこいの場所をみいだしえなかったとしても、 いまきみは愛によって受けいれられるのだ」。
(「人生に意味を」所収、「マドリード」より)