2011年8月17日水曜日

メンチカツとビールと吉田健一

夕方に退社して、近くのカフェで一服。 外に出たら、まだ暑くて喉が乾く。 昼間からビールを出す近くの洋食屋へ。 私は大年増好きなので、この店のちょっと怖い感じの小柄な女主人も好きだ。

夕食に、冷えた生ビールとメンチカツ。 ビールを飲みながら、店にあわせて吉田健一の 「交遊録」(講談社文芸文庫)から「牧野伸顕」の章を読む。 ちょっと泣けてくるくらい良い文章だ。 著者は自分の最初の「友達」として「牧野さん」のことを書くのだが、 言うまでもなく、牧野伸顕は著者の実の祖父である。 しかし、どこにも自分の祖父だとは書いていない。 通常、吉田健一の文章は一文が無闇に長くて、諧謔と逆説に満ちていて、 しかもその途中でくるくると印象が変わり、 本当はどちらを支持しているのか分からなくて、 句点の直前で背負い投げにされたりするのだが、 この本については全面的に愛情で書かれていて表裏がない (しかし、注意深く読まないと本意がとれなくて、 それだけ注意深くなる価値があるのは同じ)。 ほんとうにしみじみとして、美味いビールだった。

牧野さんもそのように生活を楽しんだ。或はその形でただ生活した。それでその前に出るとただそれだけで豊かな感じがしたもので、このことをもう少し説明するとそこには二十歳で英国に渡った時の航海もロンドンの霧も鹿鳴館の煌きもフランツ・ヨゼフの宮廷も、そして又山形有朋との暗闘もクレマンソオとの交渉も牧野さんとともにその歴史としてあって、それが普通の人間に余りないことなのではなくてその底流をなすものが普通の人間の生活であるのが明かであることがその普通の人間というものがもしあるならばその生活の奥行きを示してそれを豊かにするのだった。その普通ということだけ余計に思われて凡ての人間に共通であるただ一つのことが人間であることならば一人の人間が地道に生きて行くことで始めてその人間が接するものも光を増し、そのありのままの姿を見せるものであることが牧野さんを通してそれを意識していないものにも朧げにでも解った。例えば食通を以て任じているものには食べものはその味がしない。又自分が絵画の専門家だと思っているものの眼に絵は見えはしないのである。これは澄んでいて静かな水が一番よくものを映すようなものだろうか。

「交遊録」(吉田健一著/講談社文芸文庫)、「牧野伸顕」より